
フランケンという名称は、ゲルマン民族のフランク人に由来している。フランク族は記録に登場するのは250年のことであるが、ライン下流域から今のベルギー、北フランスに、幾つものもの支族の国に分かれて広がり、フランスとドイツの起源というべきフランク王国を建設(481年)したゲルマン民族である。
そのフランク王国のドイツ地域への進出を補強する形で、ライン中流域からマイン川に沿って大規模な移民が行なわれ、「オストフランケン(東のフランク)」と言う部族国家がつくりださた。それが地名の起源である。フランク族のドイツ地域支配の拠点であった。
なお、民族の大移動の結果、ドイツの地に定住することになっていたゲルマン民族は、アレマンネン(西南ドイツ)、ザクセン(北ドイツ)、テューリンゲン(中部ドイツ)、バイエルン(東南ドイツ)、フリ−ゼン(北ドイツ沿海低地地方)などの諸部族である。
ライン以東のゲルマン諸部族のフランク王国への従属化は、すでにメロヴィング朝(486〜751)に始まり、最後はカロリング朝のカール大帝(768〜814)によって仕上げられるのだが、それはこの地域のキリスト教化と一体となった過程であったと言える。
フランケン地方への布教は、ワインの守護聖人・キリアン(680年)に始まり、後に「ドイツ人の使徒」と呼ばれることになるイングランド出身の宣教師ボニファーティウス(マインツを拠点にドイツ各地への布教に努め、754年殉教)によって推し進められるのだが、それは、フランク王国の支配圏拡大と一体の過程でもあった。
最後まで抵抗した北ドイツのザクセン族(キリスト教化を拒む異教徒)が、カール大帝の30余年にわたる「ザクセン戦争」(772〜804)で武力平定されたことによって、ドイツ地域のキリスト教化もひとまず完了することになる。それはまた、ザクセン人の捕虜4,500人が処刑されるといった、はなはだ血なまぐさいキリスト教化で、「聖戦」と言う宗教戦争でもあったのである。
当時国王はまさに「旅する王」として、国内各地にある王宮を巡りつつ国の統治を行なっていた。カール大帝が晩年好んで滞在し、墓所もそこの大聖堂にあるアーヘンも、数ある王宮所在地のうちの一つである。(欧州の国王は、近世に至るまで、首都は持たず国内の処々に宮廷を移動巡回するのを常とした)
各地で開かれる「王国会議」には俗人の大貴族と並んで司教や修道院長など高位聖職者も参加し、王の立法・施政に参加した。
「王国会議」は「教会会議」の性格をも持ち、教会関係の事項をも決定したのだった。
この会議の決定や王の命令を文書化し、これを保管する業務を担ったのは、宮廷司祭たち聖職者であった。これは、当時の文語であるラテン語の読み書きが出来たのは殆ど聖職者に限られていたことからある意味では当然のことだし、またカトリック教会が当時最もよく整った全国的組織だったことを考えれば、国王の重要な命令がしばしば大司教から司教、司教から司教区内の有力者という教会ルートで伝えられたのもよく理解できることである。
とは言え、教会と聖職者の第一の任務は布教にあり、統治の任がすべて聖職者に任されたわけではない。教会ほど整ったものではないが、統治組織はあり、俗人の役人「伯」が置かれていて、軍事・行政・裁判権をもって管区の統治に当たっていた。
ゲルマン諸部族の有力者が伯に任ぜられて地元の統治を委ねられると、これがやがて伯権力の在地領主化につながってゆくのだが、それはともあれ、フランクの統治組織は基本的に、教会を利用しての統治と「伯」による統治の組み合わせで成り立っていたと言うことができる。
国王の全国統治のもう一つの柱であった国王巡察使が、通常大司教・司教などの聖職者と有力な伯のペアで成り立っていたというところにも、このことがよく表れている。
だからフランクの統治は聖職者だけによっていたのではないにしても、聖職者なしには済まなかったのである。
