
タウヌス山麓の丘の上に、白ワイン界の王者として、葡萄畑に囲まれたヨハニスベルグ城が聳え立っている。
ベネディクト派の修道院に始まり(1100年頃)、その歴史を誇るが、貴腐と遅摘み(Spatlese)の生誕地として、ドイツワイン文化の象徴でもある。
ナポレオンが全欧を席巻した時、多くの教会や修道院は没収され、その所領地と共に世俗諸侯に補償として分配された。
フルダの司教の管轄下にあったこの地も、例外ではなく同じ運命を辿った。
ナポレオン失脚後、ヨーロッパの新秩序確立のために、「ウィーン会議(1814〜15年)」が開催される。この会議は、「会議は踊る、されど会議は進まず」の名文句が生まれ、連日駆け引きの饗宴が行われ、最終締結まで2年にも及んだ。
(15名の王、200名の大公、126名の外交官が参加した)
この会議で、主催者側のオーストリアの名宰相メッテルニッヒは指導的役割を果たした。その功に報いて、皇帝(ハプスブルグ家)は、このヨハニスベルグ城と葡萄畑を、彼に与えた。それが今日まで続いている。その時の約束で、毎年、収穫の10%のワインを皇帝に献納することになっていて、その約束は今日まで履行されていると言われている。従って、白ワインの王様と言われるSchloss Johannisberger(シュロス・ヨハニスベルガー)の10%のワインは、毎年ハプスブルグ家に贈られているわけである。

メッテルニヒは、ライン河沿いの町コプレンツの生まれで、フランス語を能くし、駐仏大使も務め、時の敗戦国フランスのよき理解者でもあった。「わが故郷はラインラント、わが祖国はヨーロッパ」という彼の言葉が示すように、彼の目は、オーストリアと言う自国の枠を超えてヨーロッパに向けられいた。彼は、「ドイツ人」なるものは、プロイセン人、バイエルン人、ザクセン人等の総称で、国家としての実体を欠く「ドイツ統一」など架空の思想に過ぎぬとしてこれを退けた。彼の考えはフランス革命前の支配関係を復活させようとする復古的理念と捉えてられた。
ウィーン会議では実際に、フランスだけでなく、スペインやナポリでもブルボン家の王朝が復活したのだった。
しかしメッテルニヒはこの理念を教条的に信奉していたのではない。そもそも彼はナポレオンの没落を望まなかったのだし、革命前の神聖ローマ帝国の復活など一顧だにしていない。ヨーロッパ諸大国間に勢力のバランスを保つことで現行秩序を守り、ひいてはヨーロッパに平和を維持するというのが彼の政治のエッセンスで、ウィーン会議後、彼の指導下で、戦争で明け暮れていたヨーロッパが、ともかくも半世紀近く戦争無しに過ごすことができたのは、それなりに評価されていいことであろう。
*メッテルニヒは、ワイン造りについては、アルント神父と言う熟練者に任せたが、販売については、鋭い商業的センスを発揮した。
「ヨハニスベルグ゙で詰めるワインは酒蔵主任のサインしたラベルを付けずに売ってはならない」と言う命令を出した。ヨハニスベルグ゙は既に一級の品質の世評を受けていたが、その中でも極上のものを区別し、2種類のラベルを付け、品質の違いを具体的に示して出荷した。当時としては画期的なことである。これがやがてドイツ全体に及ぶ統制へと整理されていくのである。
ヨーロッパ各地で巨額な金を動かし、当時国際金融でのし上がっていたロスチャイルド家を優れた外交官として熟知していたから、その人脈を利用して極上ワインの販路を広げたのは言うまでもない。