ドイツワインの歴 史ー1

ドイツの葡萄栽培の始まり・・・モーゼル

古代ローマは、カエサルの時代にガリア遠征(BC58~51)によって、現在のフランス、ドイツのラインラント、ベルギー、さらにはスイス、北イタリアまでの広大な地域ををその支配下に収めた。
ローマ人の支配の下、ガリアは急速にローマ化して行った。全土に道路網がはりめぐらされ、都市が建設され、首都ローマと結ばれた。

 

Neumagen

都市の建設と道路網の整備は、ガリアに産業の発展をもたらし、 気候に恵まれ土地が肥えたガリアは、ローマ帝国ではもっとも豊かな地域となった。小麦、果実、食肉、酪農品が大量に生産されローマに運ばれた。
ローマから伝えられた葡萄栽培が、ピレネー山脈からライン左岸に至るまで広くゆき渡り、ワインの生産が盛んに行われるようになった。 その結果、それまでガリアでもっぱら飲まれていたビールは、ワインにとって代わった。

ローマ帝国のアルプス以北の最大の宮廷・行政都市として発展したのがトリーアである。今も残る大門や闘技場跡などで往時の繁栄振りを偲ぶことが出来る。
古文書にはモーゼル川流域の盛んな葡萄栽培が記されているし、発見されたワイン商の墓石から盛んなワイン交易も想像できる。(ローマ帝国から伝えられたブドウ栽培は当初赤葡萄であったが、モーゼルのスレート土壌と気候から、白葡萄の品種を選び出して行った。)

アウゾニウス(Ausonius)は、生地・ボルドーのサンテミリオンの最高級ワイン・「シャトー・オーゾンヌ」にその名を残す詩人であるが、 宮廷顧問として約20年間トリーアに生活した。371年、世に出した詩集「モゼラ(Mosella=Mosel)」で、モーゼル川流域のブドウ栽培をそのワインと共に褒め称えている。

「見よ!この高き山の連なりを! 急斜面、岩壁、陽当りの良き高み、 数多き湾曲と盆地は光り輝き、葡萄の木が生い茂る・・・・・ 」

ライン河は自然の造った境界線であるが、重要な軍事的な境界線でもあったから、ローマ帝国は、北の守りの前哨線として、 ライン左岸にローマ軍団を駐屯させた。そして左岸の要所に防衛を目的に多くの都市を建設した。これが、現在のドイツのライン諸都市、ケルン、ボン、コプレンツ、マインツなどである。

Porta-Nigra

 

ゲルマン民族の大移動
4世紀に入ると、北方からのゲルマン民族の大移動が始まり、6世紀まで、ガリアは大混乱の時代を迎える。古代ローマの文化・文明は徹底的に破壊され、かろうじてカトリック教の中にその名残を残すのみとなる。

ガリアに定住したゲルマンの主なグループは4つに大別できる。ガリアを横断しスペインに入ったヴァンダル族、ガリア南西部(フランスのアキテーヌ)を中心に居を定めた西ゴート族、 ガリア東部(ブルゴーニュ、アルザス)に定住するブルグント族とアレマン族、ライン右岸から北フランスに入ったフランク族である。

フランク族の初代フランク王になったクロヴィス(481年)が、残存していたローマ人の勢力を一掃し、 ガリアに定住していた他のゲルマン諸部族を破り、ガリアの支配を確立する。 クロヴィスを祖とするメロヴィング朝の後、王権はカロリング朝に引き継がれて、カール大帝(シャルルマーニュ)の時代に、 西ヨーロッパはほぼ統一され、カール大帝は、ローマ帝国滅亡後、始めてローマ皇帝の称号を受ける。(800年)

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